非同期型より同期型のコミュニケーション・メディアのほうが、「共通知識」を生みやすい。

WiredVisionの連載第22回(第22回【同期性考察編(3)】なぜニコニコ動画の「時報」は強力なのか。それは「共通知識」を生むからである。 | WIRED VISION)では、マイケル・S-Y・チウェの『儀式は何の役に立つか』(安田雪訳、新曜社、2003年)を参照しながら、同期的メディアのテレビのほうが共通知識を生み出しやすく、非同期的メディアの手紙(DM)は共通知識を生み出しにくい、という仮説の抽出作業を行いました。非同期型より同期型のコミュニケーション・メディアのほうが、「共通知識」を生みやすいということ。この点はとても重要ですので、小島寛之氏の『確率的発想法』(NHK出版、2004年)での「共通知識」に関する記述をお借りしながら、筆者なりに「同期/非同期」の軸を際立たせる形で、以下に説明してみたいと思います。

(ちなみに以下の文章は、本来は連載内に収める予定だったのですが、あまりに記述が長くなりすぎてしまうので、補論としてこちらにアップすることにしました)

メール(非同期)よりも電話(同期)のほうが「共通知識」を生みやすい。

あるとき、AさんとBさんがいて、ある知識X(たとえば「7:00にハチ公前で待ち合わせする」という約束)があったとしましょう。このとき、AさんとBさんが実際にハチ公前で無事に落ち合うためには、AさんとBさんが、それぞれ個別に、「7:00にハチ公前で待ち合わせする」という約束を知っているだけでは不十分です。「個別に」というのは、ありえない例で説明すれば、突然空から「7:00にハチ公前で待ち合わせ」という紙が降ってきて、待ち合わせに関する知識を「個別に」獲得したような状態を意味しています。さすがにこの情報だけでは、AさんとBさんの間に待ち合わせという相互行為は成立しません。そのため、両者が無事に待ち合わせを完遂するには、片方のAさんから見たとき、相手のBさんもその待ち合わせに関する情報を知っていると了解すること、そしてもう片方のBさんもまた、相手のAさんがその情報を知っていると了解している必要があります。ここでAさんとBさんの間に成立しているのが、「待ち合わせ」に関するXという知識を持っていることを互いに知っている、という「共通知識」です。

ただし実際には、上の状態はあまり「共通知識」を説明するのに適した例ではありません。なぜなら、「7:00」という客観的な指標(時刻)さえあれば、約束に関する「合意」を取り合っていなくても、とりあえず7:00にハチ公前に行けば、両者は鉢合わせすることができるからです。しかし、次のような場合はどうでしょうか。

まずAさんとBさんが、「電子メール」という《非同期的コミュニケーション》を通じて、互いに「7:00にハチ公前で待ち合わせ」という連絡を取り合ったとします。Aさんのほうが、これを読んでいる「あなた」だとしましょう。まずあなたは、Bさんに約束の時間と場所に関するメールを投げた。するとBさんは、あなたが送ったメールに「了解しました」と返信をしてきた。通常、これで約束は成立です。しかし、この後あなたは、どうしても急遽約束をキャンセルしなければならなくなったとします。そこであなたは、このキャンセルについての連絡を、すかさずBさんに「電子メールで」送ったとする。しかも、約束の時間は刻々と迫っていて、Bさんからはキャンセルについての返事はこない。このとき、あなたは猛烈に困るはずです。なぜなら、キャンセルしたということに関して、あなたとBさんの間に「共通知識」が成立していないからです。このように、非同期的コミュニケーションは、その時間の落差の存在によって、即座に「共通知識」を形成することができません。

#ちなみに、小島氏も前掲書で挙げているように、電子メールが社会に浸透し始めたころ、こんな「あるある話」がありました。それは、メールを相手に送ったのに、相手に電話して「メール届いた?」と聞いてしまった、というものです。これは「それじゃあメールを書いた意味がないじゃん(笑)」というジョークなのですが、上のような電子メールの「非同期」型コミュニケーションの性質を考えると、それはあながち笑い話ではないということです。

それではこのとき、Aさんであるあなたはどうすればいいか。おそらく、上の文章を読んだ時点で、皆さんはこう思ったのではないでしょうか――「メール」なんかを使わずに、Bさんに「ごめん、突然なんだけどいけなくなった」と「電話」をすればいいじゃないか、と。なぜなら、電話という《同期的コミュニケーション》であれば、即座に「キャンセルになった」という情報が二人の間の「共通知識」として成立するからです。とりわけ人が同期的コミュニケーションを選択するときというのは、こうした「共通知識」を即座に成立させる必要があるときである、といえるでしょう。

とはいうものの、非同期でも「共通知識」を生み出すことはできる。というかできないといけない。

ただし、ここで一点だけ補足しておく必要があるのは、必ずしも「非同期」型がすべて「共通知識」を形成しづらいわけではない、ということです。例えば、政府機関などの公的機関が発信する「公的情報(パブリック・アナウンスメント)」であれば、非同期的コミュニケーションであっても「共通知識」を形成することができます。こうした機関が発行する情報であれば、たとえ非同期的にそれが発信されていたとしても、ある一定の関係者の間では「常にチェックしていて当然である」という予期があらかじめ通有されているために、「共通知識」になりうるということです。

#ただし、この公的情報の説明は、若干トートロジーの様相を呈しているといえます。なぜなら、「公的機関の発する情報であれば、誰もがその情報をチェックして知っているはずだ」という予期は疑いだすとキリがないからです(こうした「共通知識」の性質は、社会学における「ダブル・コンティンジェンシー」と同型的ということができるでしょう)。しかし、逆に言えば、こうした「公的組織」や「公的機関」といった「虚人称」的な存在を意味論的(シンボル的)に設定することで、私たちの社会は、無限に推論が続いてしまう不毛な状態を実質的にキャンセルしつつ、「共通知識」がもたらす恩恵を享受することができている、とみなすこともできます*1

さて、それではもし仮に、こうした「公的情報」という情報発信機能をその社会が持っていないとすると、その社会は著しく――微妙な表現ですが――「不効率」な社会であろうと想像できます。なぜなら、複数の人間が集まって形成されている社会集団において、「いま・ここ」として共有可能な時間数は有限である以上、「共通知識」を生み出すのに必要な同期的コミュニケーションの機会は、ごく限られてしまうからです。非同期的なコミュニケーションが、ある意味無限に量産可能であるのに対し(もちろんこれはこれで認知能力の側に限界がきますが)、同期的コミュニケーションは、そもそもその成立可能性という点において「希少」な社会的資源だということができるわけです。

かなり単純な議論になってしまいますが、こうした「同期性」の希少性をめぐる議論を、次のような社会の「発展段階説」に落とし込んでみることもできます。いわゆるゲマインシャフト的な原始共同体的社会(環節型社会)においては、社会成員間で「顔の見える範囲」でコミュニケーションが可能であり、Face to Faceな文字通りの「儀式」を通じて、その共同体における同期的コミュニケーションを実現するのは相対的にたやすい(「共通知識」を形成できる)。しかし、社会の規模が巨大化し、その役割分担の度合いも高度に複雑化した、いわゆるゲゼルシャフト的な近代社会(機能分化社会あるいは分業型社会)においては、そう頻繁にFace to Faceな同期的なコミュニケーションを実現することはできなくなります。そこで近代社会においては、その一部をマスメディア(テレビや新聞)が担うようになったけれども(その希少性ゆえに、テレビや新聞の広告費はとても高価な値段が付いてきた)、人間の可処分時間は有限だから、どうしても同期的コミュニケーションだけでは生成できる「共通知識」に限りが出てくる。そこで、こうした同期性の「希少性」を補うために重要な役割を果たすのが、非同期的であっても「共通知識」を成立させる公的機関の存在なのである、と。

そして、現代社会においては、マスメディアによるコミュニケーション体験のシンクロナイゼーションは、かつてほど強力に機能しているとはもはや期待できなくなっていると同時に、インターネットという基本非同期メディアが浸透していくことで、どんどん社会全体で通有される「共通知識」は目減りしている、とひとまず考えることができます。そう考えると、インターネット上にしばしば「村」と呼ばれるローカルな地域感覚がしばしば形成されるのも、むしろ当然の帰結だといえるでしょう。インターネット上で大規模な同期的コミュニケーションを実現するのは技術的に難しいとなると、「共通知識」を形成するためには(「空気」を読みあうためには)、かつてのゲマインシャフト段階にまでむしろ戻って、ある程度コミュニケーションの範囲が限定された閉域をつくる必然性が出てくるからである、と。

*1:「公式性」と「共通知識(予期や推論の無限後退的連鎖)」の関係については、宮台真司『権力の予期理論』(勁草書房、1989年)が大変示唆的です。同書では「共通知識」という概念こそ出てこないものの、ゲーム論的な国家権力の理論的記述が詳細に行われており、いうなれば国家とは、「いつでも誰でも、国家権力(という奪人称的で唯一合法的な物理的暴力の独占主体)を呼び出すことができる」ということが、いわば「共通知識」として通有されている状態、と定義されています。