「共通知識」あれこれ

先週末から今週にかけて、伊豆大島に行ったり引越しをしたりでまともにネットにアクセスできない状態が続いていました(先週はWiredVisionの連載のほうも落としてしまったのですが、今週分はなんとかアップすることができました:第23回【同期性考察編(4)】「欲望」型のマスメディア、「欲求」型のインターネット)。そのためもあって、ご紹介が大変に遅くなってしまったのですが、先日第22回で取り上げた「共通知識」という概念について、同じくWiredVisionで連載されている小島寛之氏が、「いくら情報交換しても確信に至らないメカニズム〜eメールゲーム」というエントリを書かれています。もし未読の方がいらっしゃいましたら、ぜひあわせてお読みください。

ちなみに、もともと筆者が同期型/非同期型コミュニケーションと「共通知識」の関係についての着想を得たのは、今回の一連の考察を書く前に、チウェの『儀式は何の役に立つか』と小島氏の『確率的発想法』をほぼ同時期に読み直したのがきっかけでした。それゆえ、本当は本文中で並べて言及したいと考えていたのですが、どうにも文章が長くなってしまったので、WiredVisionでは「テレビ」に関するチウェの論説だけを取り上げ、小島氏の触れていた「eメール」のケースについては、個人サイトのほうで補足する形にした次第です。まことに失礼いたしました>小島様。

さらにちなみに。どうやら「Common Knowledge」の定訳は、――むろん筆者はゲーム理論の専門的研究者ではないので確かなことはいえませんが――いまのところ存在しないようです。筆者は、チウェの邦訳書(訳者はネットワーク分析で知られる安田雪氏)から「共通知識」という言葉をそのまま参照したのですが、たとえば竹田茂夫氏の『ゲーム理論を読み解く』では「共通の知識」、ゲーム理論研究者の金子守氏による『ゲーム理論と蒟蒻問答』では「共通認識」となっています。また、小島氏は『確率的発想法』の中で、「共有認識」といった日本語の訳語は、日常的な語彙のニュアンスが強いとして――なんとなく合意が取れている、知識が共有されているだけの状態を想起させてしまうため、共通知識の本来の定義である「高階の知識=メタ知識」についての含意が薄れてしまうという意味だと思われますが――、あえて「コモンノレッジ」とカタカナで表記されています。また、これと(字面の)よく似た人文系キーワードとして、「Common Sense(コモンセンス)」というものがあります。しかし、これも「常識」と訳したり、「共通感覚」と訳したり、「コモンセンス」としか訳しようがないといわれたりと、「Common」という言葉のニュアンスはどうも日本語には訳しづらいところがあります。

これは単なる訳語の問題ではどうも済まされなくて、(以前筆者もWiredのほうで示唆した)「共通知識」と「空気」という二つの類似した概念を、それでもやはり明確に隔てるポイントにもつながってくる問題です。それはひとことでいえば、チウェの想定している「共通知識」は、<明示的>なコミュニケーションによって形成されるのに対し、いわゆる日本社会特殊論の文脈で用いられる「空気」なるものは、むしろ<非明示的>なコミュニケーションによって――ある意味、コミュニケーションをあえてしないことによって*1――形成されるものとして、それぞれ概念化されている、ということです。チウェのいう「儀式」とは、チウェが先行研究として挙げているトーマス・シェリングの「focal point」(焦点=注目を集める装置)としての機能を果たすものとして想定されているのですが、これに対して「空気」なるものは、特に人々の「焦点」を集めることなく(大澤真幸氏のタームを借りれば「遠心化作用」の焦点を欠いたまま)、それでもいつのまにか通有されているようなものとして概念化されてきた。だから「空気」は、しばしば神秘的というか、得体の知れないものとして扱われてきたわけです。それはいつの間にか立ち上がっていて、人々の行動や思考を支配している。だから対象化のしようがないし、抵抗のしようもないのだ、と。これ以上はあまり深入りせずに、ここでいったんまとめてしまえば、「共通知識」では明示的、「空気」では非明示的と、知識の「Common」化される過程がそれぞれ異なっている。それゆえ、「Common」という言葉のニュアンスは、「空気」の支配する日本語圏に翻訳すると、ミスマッチを起こしてしまうのではないか、と。

――ただ、このように考えると、昨今しばしば見かけられる*2、「リアルよりもネットのほうが空気読みやすいんだけど」「でも、本来ネット上では、身振りとか表情とかの文脈情報が希薄だから「場の空気」が読みにくいはずで、それゆえCMC研究なんかだと、だから炎上(フレーミング)も生じやすいといわれていたくらいだったのに云々」といった論点も、実は明確に理解できる可能性があるように思われます。それはどういうことかというと、もはやネット上で「空気」が読みやすいといわれるとき、それは上のような意味での「空気」ではなくて、単に「共通知識」が得られやすいということを意味している可能性がある、ということです。たとえば「はてなブックマーク」は、しばしば「集合知」や「フォークソノミー」を実現すると称揚されることもあれば、「ネットイナゴの巣窟」と非難されたりと毀誉褒貶激しいサービスですが、一ついえることは、それはネット上において、まさにチウェ/シェリングのいう「focal point」を<明示化>する装置だということです。それは、第三者的な集計機関という形を通じて、非明示的にではなく、それこそ「ブクマ数」というこれ以上ないほどに明示的な形で、「いま皆が何に焦点を当てているのか」に関する「共通知識」を補完してくれる(そして、そんなサービスはリアルのF2F的コミュニケーションにおいては存在しない!)。本来、特に日本のリアルのコミュニケーション上では、明示的には示されることのない「共通知識」を、なんとかして「空気」として先取りする必要に迫られる。しかし、少なくともはてなブックマークのようなサービスの「住人」であれば、そんな労をかけることなく、「共通知識」を明示的に確保することができるのである、と。そのコスト負担の軽さが、「ネットのほうが『空気』読みやすい」という表現を取っているのではないか、と思われます。

*1:この「メッセージをいかに伝達しないようにするか」という作法によって、むしろコミュニケーションを成立させていくという日本社会のコミュニケーション作法・制度・社会秩序について理解するには、正村俊之氏の『秘密と恥』(勁草書房、1995年)が大変啓発的です。

*2:といったものの、具体的にどこで見たかけたのかをうっかり失念してしまったので、リンクによる言及は割愛します…。すみません。