「テレビ」は同期型か?――「メッセージ」の伝達と「共通知識」の形成の区別

 「テレビは同期型ではないと思うのですけれど。」(浅倉卓司@blog風味?)というご指摘をいただきましたので、ここで簡単に補足しておきたいと思います。浅倉氏のご指摘は、

テレビは非同期メディアでしょう。テレビ局側は「相手がテレビを見ている」ことを確認できないのですから。同期型であるからには(電話の例でも書かれていたように)相手に伝わったことを確認できる必要があるはずです。

というものなのですが、ここで「同期型であるからには」と表現されているのは、「同期性(コミュニケーションの発信と受信の間の時間差が存在しないこと)」という概念とは異なり、コミュニケーションの「双方向性」(インタラクティブ性)として区別したほうがよいと思われます。

 ここで、改めて用語の確認をしておきましょう:

  • コミュニケーションが「同期的」であるとは、そのコミュニケーションにおける発信側と受信側の間のメッセージ伝達*1が、時間差(タイムラグ)なしに行われることである。要するに、情報の発信と受信が、ほとんど瞬間的かつ同時に行われる状態を指す。これに対し「非同期」とは、その時間差が存在する場合を指す。
  • コミュニケーションが「双方向的」であるとは、そのコミュニケーションにおける発信側と受信側が、相互にメッセージをやり取りできる状態を指す(受信と発信の立場の入れ替え可能性がある)。これに対し「一方方向的」とは、発信と受信の関係が固定的で、一方的にメッセージが発信される状態を指す。

 そしてこの定義に基づけば、

  • テレビは「同期的」で「一方方向的」なメディアである(その特性は縮約して「一斉同報的」などとも表現されます)。
  • 電話は、「同期的」で「双方向的」なメディアである。

ということになります。筆者がテレビを「同期的」というとき、それは上のような意味で用いているのであって、「双方向性」という性質とは区別しています。



 さて、これだけだと単に定義を明確化しただけなのですが、さらにもう一点、付け加えておきたいと思います。

 浅倉氏は、「双方向性」がなければ「共通知識」は形成されないと指摘されているのですが、それは受信者と発信者の間に「共通知識」を形成する必要がある場合には、そのとおりです。これに対し、もともと筆者がチウェの論を借りて《テレビを通じて「共通知識」が形成される》というとき、それは「テレビ局と視聴者の間に」ということではなく、あくまでそのテレビを一方方向的に受容する「視聴者の間に」、ということを意味していました。そしてこのとき、視聴者の間に、「果たしてこのCMや番組を他の人も知ったのだろうか、そして自分も知ったということを相手は知っているのだろうか…」といった「共通知識」が成立するためには、さしあたり「テレビ局」の側の意図や了解が確認される必要はありません。つまり視聴者の側に、ある情報についての「共通知識」が成立するためには、「一斉に同時に情報が伝達される」という技術的条件さえあれば、事足りるということです。つまり、「双方向性」という特性は必ずしも(さらにいえば、むしろ)必要ではない。

 もしかしたら、筆者はこれまで「コミュニケーション」という言葉を普通に断りなく使っていたので、「発信側から受信側へと『メッセージ』がコミュニケートされるのに''付随''して、『共通知識』も伝達・形成される」という誤解が生じてしまったのかもしれません。しかし、これが「共通知識」という概念のある意味で面白いところなのですが、それは何かメッセージのようにAからBへと伝達することで「共有」されるわけではないのです。「メッセージ」の伝達と、「共通知識」の形成は、ひとまずアンバンドルして考えることができる。

 それはこういうことです。テレビという「同期的」で「一方方向」的なコミュニケーション・メディアにおいては、テレビ番組やCMといった情報(コンテンツ)は、テレビ局という発信側から、視聴者という受信側に向けて、一方方向的に伝達される。これはあくまでテレビ局から視聴者に向けた一方方向的なコミュニケーションですから、視聴者の間には、一切具体的なメッセージのやり取りは生じていない。しかしそれでも、テレビという一斉同報的なメディアは、その技術特性上、「そのコンテンツを皆同時に受け取ったはずだ」という推論を成立させるために、「共通知識」が通有される。もちろん、テレビの視聴者は、そんなことをテレビを見ながら毎時毎分ごとに、「よし、これは他の人も見ているぞ…」などと意識の上で主題的に確認しているわけではないのですが、むしろそんなことを細かく明示的に確認する必要がないほどに「自明」なものとして――逆にいえば、「いや、そんなの見てないよ」という言い出す人が出てきてはじめて、「まさかそれが『共通知識』になっていないとは思いもしなかった」という形で明示的に気づかされる*2という意味において――、テレビは視聴者の間に「共通知識」をセットする、ということです。

 以上で補足は終わりますが、浅倉氏は上の「同期/非同期」にかわって、「受動/能動」というファクターを提示されています。すなわち、テレビやニコニコ動画の「時報」が強力なのは、それらが「受動的」(積極的に見ようとしなくても目に入る(耳に入る))なメディアだからではないか、と。これはマクルーハンのメディア論(ホット/クール)を想起させるものですが、その方向でも議論を立てていくことは十分に可能だと思います。たとえば、大黒岳彦氏の『<メディア>の哲学』(NTT出版、2006年)に出てくる、ルーマンの「動画コミュニケーション」(テレビや映画といった映像メディア)に関する分析は、まさにそうした「受動性」を別様に捉えたものとして参考になりそうです*3

*1:ここで「コミュニケーション」というのは、ごく一般的な意味でのコミュニケーション、つまり「小包モデル」(「発信→メッセージ(小包)→受信」)をベースにしています。この「小包モデル」に対しては、ルーマン的なコミュニケーションモデル(「情報←伝達←解釈」と、受け手側が情報発信元の「意図」を遡及していくモデル)を参照する社会学者・メディア論者などからは、数多くの批判が上がっているのですが、ここでは説明を分かりやすくするために小包モデルを採用しています。――ただし、実はルーマン型のコミュニケーションモデルを採用すると、テレビのような「同期的」で「一方方向的」なメディアのほうが、その場ですぐさま発信側の意図を解釈するのが困難という意味で、情報の伝達と解釈の間に「時間差」が生じてしまう、という真逆の説明をする必要が出てきます。シャノン型か、ルーマン型か、どちらのコミュニケーションモデルを採用するかによって、「同期/非同期」の定義が反転してしまうというこの問題はなかなか面白いのですが、ここではその存在を指摘しておくに留めておきたいと思います。

*2:つまり、テレビは「消極的予期」(宮台真司)として「共通知識」を視聴者の側に形成するということです。

*3:すでに注1でも言及したのですが、こちらについても簡単に触れておきましょう。ルーマン/大黒によれば、映像(動画+音声)は、文字メディアやFace to Faceコミュニケーションに比べると、受信者がその場に居合わせていないにも関わらず、有無を言わさずその映像に映し出されている世界に対する「擬似現実感」を醸成する性質を持っています(これをルーマンは「現場不在の現実性(アリバイ的リアリティ)」と呼ぶ)。さらに、テレビや新聞といったマスメディアの特徴は、発信者から受信者との間に一切「対面性」がない(=「双方向性」がない)点にあると指摘されています。そしてこれら二つの特徴は、いずれも、そのコミュニケーションに込められている伝達者の「意図」を読み込むことを、相対的に困難にしてしまうという点にあります(だからこそ一般的な「メディアリテラシー教育」では、とりわけ映像に込められた製作側の「意図」を読み込むことを強調するし、またいわゆるネットユーザーに特徴的に見られる「マスコミ批判」の振る舞いというのは、そうしたマスメディアという「伝達者」の意図を過剰なまでに読み込む行為となっている)。ルーマンのコミュニケーション概念は、情報が発信側から受信側に順に流れていくという一般的なモデルとは異なり、受け手側が発信側の「意図」を解釈・選択していくというモデルを採用しているのですが、こうした観点からは、マスメディアの特徴は単に大量のユーザーに情報を一斉に伝播する点ではなく、こうした「意図」を忖度しづらいという点にかかっている、と定義されるわけです。