連載更新のお知らせ――『恋空』における「死亡フラグ」の扱われ方をめぐって

(すでに1月も中盤に入ってこういうのもなんですが)新年明け一発目のエントリがWiredVisionに掲載されました→『恋空』を読む(1):ケータイ小説の「限定されたリアル」 | WIRED VISION。先日ここで少し予告したように、ケータイ小説の『恋空』について書きましたが、肝心の『恋空』の中身にはまだ触れておらず、「次回に続く」という形になっています。本当はさっさと『恋空』の内容分析に入りたかったのですが、自分の悪いくせで、いろいろとノート的に書いてしまいました…。

さて、今回のエントリを書くにあたって、ケータイ小説をめぐるネット上の議論や考察を読んで回ってみたのですが、ひとつ感じたことがありました。それは、こうした議論の多くが、ケータイ小説の「中身」についての議論ではなく、その「外側」について、すなわちケータイ小説の《状況論》や《位置づけ論》に終始しているきらいがあるのではないか、といったようなことです。もっとはっきりいえば、ケータイ小説に描かれている内容は、ネット上でケータイ小説についてあれこれと論じている「わたしたち」とは――ここで「わたしたち」というのは、ネット上で「はてな」や「アルファブロガー」や「ネット論壇」といった圏域に生息していて、ケータイ・ユーザーよりもITリテラシーが高いとされている人たちのことを主に指していますが――、一切関係や共通点を持っていないということが、ほぼ自明な前提として共有されてしまっているように感じられたんですね。

まあ確かに、『恋空』のあらすじというのは、レイプに妊娠に中絶に難病といったものですから、普通に考えれば、そこには何か「リアル」な内容が書かれているとは到底思えないかもしれません。しかしそれにしても、ネット上で『恋空』に言及している言説の多くは、まさにその「限定されたリアル」の「圏外」から、1)「実際に読んでみたら、やっぱり『恋空』クソすぎでした」とツッコミを入れるか、2)「実はケータイ小説読んでない/まともに読めないんですけど、まあでもこれが彼/女らにとってのリアルなんでしょうね」と客観的にフォローするか、この2つのタイプが大半を占めていました。といっても、はてなブックマーク界隈で盛り上がった記事とGoogle検索上位しか筆者は追いかけていませんので、ごく限られた範囲にしかあてはまらない印象論である、ということはお断りしておかねばなりません。しかし、それにしても、あまりに極端な状況ではないかと筆者は思わずにはいられなかったのも事実です。

その反面、むしろこれこそが、東氏も指摘するように、昨今の情報社会の特徴でもある。『恋空』というコンテンツについてなにがしか饒舌に語る人々は、『恋空』に対する嘲笑やツッコミ、あるいは『恋空』を取り巻く「限定されたリアル」をめぐる状況論を語るだけで、その作品の中身について語ることはないということ。こうした状況は、まさに、「メタコンテンツのほうがコンテンツよりもはるかに大量に消費されている」(「「メタデータ」が主役のコンテンツ消費・人文系が語るネット(下) IT-Plus)といえるからです。さらに付け加えるならば、『恋空』というコンテンツを愛好する、「限定されたリアル」の内側に属する人々は、素朴にそれに対して「泣いた」「感動した」といった感情的なリアクションを示すのみである、と。

――と書いていたら、さきほど、当の東氏のブログで、「『恋空』読みました」なるエントリがアップされていました。なんと、「少なくともぼくは泣けました」との感想が…。あまりにリアルタイムな内容で、ちょっと驚いてしまいました(笑)。

ただ、これはちょっと「後だし」くさくなってしまうのですが、実は筆者もこの作品を読んで、ラストのシーンでは思わず涙を流してしまいました。これはまあ「好み」の問題といってしまえばそれまでではあるのですが、東氏も「リアリティ云々はともかく、物語の組み立てはそれほど単純なものではない」というように、ある程度その物語の「構成」によってもたらされている、ともいえるのではないかと思います。この点については、次回以降に予定している分析内容とは基本的に関係がないので、少しここで書いてみたいと思うのですが、その構成とは何かというと、この作品の(ネット上でとりわけ使われる言葉を使えば)「死亡フラグ」の使い方にあります。

一般に、『恋空』という作品は、「実は彼氏が死の病に犯されている」という、きわめてベタな展開を示す作品である、ということになっています。だから、その先の展開があまりにも簡単に読めてしまって――つまり、あまりにも「死亡フラグ」が露骨すぎて――、ぜんぜん感動できないし面白くない、というわけです。しかし、筆者の印象では、それこそ『恋空』という作品をちゃんと「読めていない」という感じもしました。というのも、この作品は、物語のごく序盤から、それこそまだ彼氏であるヒロが死ぬかどうかということすら全く暗示されていない段階から、「あのときは本当に幸せだったよね」的な、語り手の「過去形(回想的語り)」が挟み込まれています。しかもこの物語において、語り手であるミカとヒロの二人の「直接」のラブストーリーが展開されるのは、実は全2巻(約700ページ)のうち、その上巻の前半と下巻の後半だけであり、全体の約半分程度しか占めていません。『恋空』の内容の大半は、実は唐突な形でヒロから別れを告げられてしまった「後」のエピソードであり(もう一人の別の男性と付き合うことになる)、そしてことあるごとに、語り手のミカは、「ヒロと付き合っていたときは本当に辛かったけど幸せで…」という回想や後悔を挟み込んでいるのです。

こうして、実に丹念に挟み込まれるヒロに対する「過去形」の語りは、確かに読者に、「おそらくヒロは死んでしまったのだろうな」という予感を与えます。『恋空』のあらすじや前評判を全く知らないでこの作品を読んだ読者であっても、おそらく、そのことに気づかない人はいないでしょう。ただ、それは、「死亡フラグがベタ過ぎで実につまらない」というのとは少し違う。むしろこの作品は、序盤の段階から、なんらかの理由でヒロとは永遠の別れを経ている、ということを過去形の語りによって何度も示唆することで、死亡フラグをあらかじめ読者に「先取り」させようとしている。

そして、この作品のラスト手前では、ヒロの遺した日記が十数ページに渡って展開されるのですが、これはヒロの視点から、この物語の全体が記述される形になっています。それは、ミカと別れることを決意する頃(癌告知を受けた日)から、ついに命を絶たれるまでの約4年間について、実にぶっきらぼうで拙い言葉で書かれているのですが、ヒロの側も、ミカと別れてしまった後も、ミカのことばかり考えていた、ということがわかる内容になっています。そしてこのヒロの日記の最後には、「俺が例えいなくなっても、俺は自信を持って幸せだと言える。とても幸せだったと。そして今も幸せだと… 美嘉は幸せでしたか?」(魔法のiらんど版(後編)のP.304、書籍版ではP.339)と問いかけている。そして、『恋空』という一連のミカによる長大な――書籍で700ページに渡るわけですから、一応長大と形容してもそれほど大げさではないでしょう――物語は、この最期のヒロの問いかけに対し、「私もとても幸せでした」と応答するためのアンサーストーリーだったということが、はっきりと示されます。それは、「魔法のiらんど」版の後半の冒頭(扉)に記されている言葉、「【君は幸せでしたか?】【とても幸せでした】」という文面からも明らかになっています。

つまり、こういうことです。この作品においては、「彼氏であるヒロが難病で死んでしまう」という死亡フラグの存在自体が、何かこのストーリーを悲劇的ないしは感動的なものにしているのではない。むしろ、すでに彼が死んでしまっている「現在」の視点から、過去の「幸せ」だった時間を、膨大な分量を通じて回想するという「振り返り」の視点に感情移入させることで、この『恋空』という作品自体が、「もう死んでしまったヒロに対する、決して届くことのない『回答』になっている」ということを感受させる、という構図になっている。いいかえれば、「彼は死んでしまう」という事件それ自体が切なかったり悲しかったりする感情をもたらすのではなく、「彼は死んだとしても、それを受け入れていく」という《決意》や《受容》自体に、読者もまた感情移入するように構成されている、というわけです。

もちろん、こうした「死を受け入れる」という主題を扱ったストーリーは、それほど何か目新しいものとはいえないでしょうし、上のような「回想」的な文体や構成というのも、やはりまたそれほど新規的とはいえないかもしれません。確かにストーリーの「あらすじ」や「フラグ」や個別の「内面描写」という観点から見れば、それはあまりに稚拙で、支離滅裂で、唐突な内容として読めてしまうかもしれませんが、少なくとも上のような構成と文体の面で見れば、それほど稚拙で全く読むに値しない作品であるとは、筆者は思いませんでした。

ちなみに、以上の内容は、小説版の「恋空」について述べたものです。映画版については筆者は観ていないのでわかりません。どうやら宮台真司氏の紹介によると、映画版においても「物語全体は回想である」ということは示唆されるようなのですが、「そこでは時間が一切堆積しない。時間の堆積が与える関係性がない。代わりに「殴れば痛い」的な脊髄反射がある」と要約されています(M2Jpop批評(TBSラジオ)のオンエアは1月4日。予告編的な文章を書きました - MIYADAI.com Blog。同文章は『ダ・ヴィンチ』誌での連載に掲載されたもの)*1。まあ、小説版を読んでも、これと同じ感想を持つ方は多いと思うので、映画版と小説版の違いにこだわっても仕方がないのかもしれませんが…(それに、確かに『恋空』は個々のシーンにおいては、まさに「脊髄反射的」としかいいようのない展開を見せます。その点については連載次回に書きます)。とりあえず、ひまがあったら、いつか『恋空』の映画版も観てみたいと思います。

追記(2007.01.17)

一日遅れの追記となってしまうのですが、昨晩上のようなエントリを書いたところ、東さんからさらに『恋空』に関する記事が上がっていました! 

東浩紀の渦状言論: 『恋空』読みました2
http://www.hirokiazuma.com/archives/000358.html

す、すげえ……。実にハイパーな構造分析で、思わず『恋空』を再度読み返したくなるような気持ちに駆られてしまいました。「そう、あのウタ*2というキャラはまさに《外部》への可能性を垣間見せたと思うんですよね…!!」とか思わず頷いてしまいました(苦笑)。

ちなみに、東さんにはWiredVisionでの『恋空』論の行末についてもご配慮を頂いているのですが(わざわざすみません、ありがとうございます)、いちおう次回以降の内容についても触れておくと、それは「『恋空』の神話構造を読み取る」といった「深層的」なものではなく(まさかそんな展開を予想された方はいないとは思いますが…)、もっとぐっと「表面的」なものになる予定です。ひとことでいえば、それは『恋空』という作品中における、ケータイの使われ方・描かれた方(に関する記述)に着目するというものです*3。これは東さんのお言葉を借りれば、ベタに「社会学的な観察に還元」していく方向性に相当しているのですが(そのため、単純に「話が被ってしまった」ということはないのですが)、その詳細は次回に…。

*1:ここで宮台氏の記述を引用しておきます:「■この映画は本当に凄い。輪姦されても好きな男が「守ってやれなくてご免」と抱き締めれば直ちに回復。図書館で性交すれば直ちに妊娠。それをやっかむ女に突き転ばされれば直ちに流産。スキな男が去れば直ちに「近い男」と結合。スキな男が去った理由を知れば直ちに戻る。 ■極め付けはラストシーンだ。映画の冒頭と末尾は、成人となった主人公が電車で旅する場面だ。それらに挟まれた本編は旅する主人公の回想だということになる。車窓からのどかな田園風景が見える。「そうか、主人公は死んだ男を悼んで一人旅をしているのか」と思いきや…。 ■駅で降車するや家族がお帰りなさいと出迎え、主人公が笑みで応える。中森明夫氏の言う通りあたかも何も起らなかったが如し。「遠い男が勝つ」どころでない。そこでは時間が一切堆積しない。時間の堆積が与える関係性がない。代わりに「殴れば痛い」的な脊髄反射がある。 ■1991年に少女漫画研究家として初めてNHKテレビに出た私には感慨深い。それまでの波乱万丈ものや大河ものに代わって少女漫画が「これってあたし!」と自分を重ねられる関係性モデルを主軸としたものに変わったのが1973年。以降は関係性モデルが少女文化を駆動した。 ■その伝統が終ったのだ。関係性から脊髄反射へ(ケータイ系)。関係性から萠えへ(アキバ系)。『恋空』を「死にオチ」の駄作映画として片づけられない。そこには昨今のケータイ小説に見られる関係性の短絡化、或いは反意味的な浮き沈みを、摸倣しようとする実験がある。 」(引用終わり)――どうやら、この要約を読む限り、小説版と映画版では、そのラストの描かれ方はだいぶ違うようです。小説版のあとがきでは、家族に迎えられて「あたかも何も起らなかったが如し」という描写とはむしろ正反対のものになっていて、死ぬ前にヒロが残した、つまり『家族』となるべきはずだった「赤ちゃん(第二子)」との別離について言及されているからです。

*2:ちなみにこの作品の中では、主人公のミカは「ちょいギャル(高校デビュー組)」という設定で、ウタというキャラは、そのミカも引いてしまうほどの「ものすごいギャル」という設定になっています。ミカが大学で出会って、いきなりウタと友達になるシーンは圧巻(?)で、ほとんどナンパさながらに、「あ〜!それウタと同じ機種ぢゃねえ〜!??!」(中略)「ほらぁ〜やっぱりぃ!!!!!同じ機種ぢゃ〜ん♪仲間仲間ぁ〜!!!!!」というだけで、ミカはいきなり「今日からマブダチ」にさせられてしまいます。その後ウタは、ミカとアヤの「親友≒分身」的な関係にヒビを入れる「外部からの視点」をもたらしたりもするのですが(カラオケで酔っ払っていたら、「アヤっちねぇ〜、美嘉と優先輩を別れさせたがってるっぽいのだぁ〜!!!!!!」と突然ミカにチクるシーン)、一年ほどするとウタは大学に来なくなり、自分でジュエリー店を開くためにキャバで働くようになって(自己実現!)、ミカの前からはぱったり姿を消してしまいます。

*3:これは『恋空』を読まれた方であれば誰もが気づくことですが、この小説は、ほとんどケータイが主人公じゃないかと思うほどに、ヒロと出会う前からヒロと死別したシーンにいたるまで、ほとんどすべてのシーンにおいてケータイが決定的に重要な役割を果たしています(その意味で「この作品はまさに『ケータイ小説』である」という感想を抱く方も多いようです)。つまり、次回の内容は、「『恋空』からは、若者たちのケータイ利用実態を読み取ることができる」というベタな趣旨にほとんど等しくなります。ただし、もちろんそれだけの内容では終わらない予定ではありますが。