『4gamer』にインタビュー記事が掲載されました。テーマは「ニコニコ動画≒ゲーム」説。


3/14に予定されている「OGC2008」の事前取材です。なんと2万字超!(まさに「ちょww」って感じのボリュームになってますが(笑))。4gamer記者のTAITAIさんとけっこう話が盛り上がり(後半はむしろ私のほうが聞き手にまわっています)、オンラインゲームの方面からも、Web 2.0 / CGMの方面からも読めるような内容になっているのではないかと思います。ちなみに、もちろん取材当日はこんなに理路整然と喋れたわけもなく、かなりの加筆修正を入れました。本当にお手数おかけしました>TAITAIさん

とりあえず、3/14の講演で話そうと考えているアイデアは、「ニコニコ動画RTS(Real-Time Strategy)型ゲームのようなもの」について語っている、下の部分に集約されています。ちょっと長くなりますが、引用しておきます。要点は、ニコニコ動画では「文字がプレイヤーの操作するキャラクター」となっていて、「異なる時間が支配するフィールドが、一画面上にばらばらに展開されている」という2点です。

ニコニコ動画というのは,複数のコミュニケーションのフィールド(戦場)が一画面上にばらばらに存在していて,常に各々のフィールドから「ちょww」と笑わせようとする「攻撃」が飛び交っているというような,ある種の「RTS」型のゲームとみなせるのではないかと思うんですね。

(中略)

ニコニコ動画というゲームにおいて,メインのフィールドとなるのはもちろん動画とコメントが表示されるウィンドウで,ここには「ちょwww」といった脊髄反射的なコメントから,「歌詞」「弾幕」「AA」といった職人的なコメントまで,さまざまなコメントが「疑似同期」の仕組みによって,一つの流れの上に束ねられています。
 一方,メインフィールドの上にある「タグ」のフィールドでは,ネタ的なタグが書かれては瞬時に消されてしまうという,「タグ編集合戦」が繰り広げられていて,いわば「瞬間同期」とでもいうべき時間が流れている。
 さらにメインフィールドの下には「ニコニコ市場」があって,ここには「ランキング」という形で,1日単位で時間の流れが刻まれていく。かと思えば,突然運営が用意した「時報」が鳴り響いて,全プレイヤーの時間が一瞬止まってしまう「真性同期」的なイベントがもたらされる。ちょっと長くなりましたが,こんな感じでまったく別種の「時間」の流れが一画面上に散らばっている。それがニコニコ動画なんですよね。

(中略)

 そして,それぞれのフィールドに投入された「注目すべきネタ」を発見したプレイヤーは,「タグ理解ww」「市場買ったの誰だよww」「時報 uzeeee」といったコメントの形で,メインフィールドへと「報告」を行っていく。それを見てまた別のプレイヤーが,「タグ」や「市場」のフィールドへと目を移しては,「ちょwww」とコメントを連鎖させていくという。
 これって要するに,ニコニコ動画というゲーム上でプレイヤーが操作する「キャラクター」というのは,文字通りの意味で「character」,つまりコメントという「文字」だということなんですよ。そしてニコニコ動画上の各フィールドに展開するそれぞれのキャラクター達が,ほかの陣営のキャラクター達の「関心の矛先」を引きつけようと,さまざまな「ネタ」という攻撃を絶えず投入しているわけです。
 そしてニコニコ動画のプレイヤーは,一瞬のスキも油断も許されないままで,動画だけではなく,タグやら市場やら時報やらへと常に視線をせわしなく動かしては,時にツボにはまって「腹筋」や「涙腺」を刺激されてしまう(笑)。

(中略)

 ちなみに情報経済論の分野では,「注目の経済」(アテンション・エコノミー)という言葉があるんですけど,まさにニコニコ動画というのは「注目の経済」をそのままゲームにしてしまったような感じなんですよね。要するに,「誰が最も注目を集めることができるのか」をめぐって,せわしなくプレイヤーたちが動き回るゲーム。それがニコニコ動画なのではないかと。

「注目の経済」という観点でいけば、2chもブログもはてブも全部「ゲーム」だということになってしまうのですが、筆者がここで考えているのもやはり「時間」の問題です。もはやニコニコ動画は、単に「擬似同期」という性質で片付けられるサービスではなくなっているので、筆者の側もちょっと認識のバージョンアップをはからないといけないな、と考えていました。そこで出てきた着想が上のようなものになっています。いうなればニコニコ動画というのは、バフチンの言葉をもじっていえば「ポリクロニック(poly-chronic)」なアーキテクチャなのだ*1、というわけです。

……とはいえ、文章でいくらこのことを説明しようとしても、ニコ厨でない方には(苦笑)、何がなにやらちんぷんかんぷんなのではないかと思います。そこでOGC講演当日は、なんとかうまいこと、「異なる時間の流れの狭間に挟まれて、ニコニコ動画というゲームをプレイする感覚」を擬似的に体感してもらえるようなプレゼン内容にしたいな、と。いわば「操作ログ的リアリズム」を自分に課す、という気概で取り組みたいと思っています。

以下、当インタビュー記事に関していくつかの補足を。

ニコニコ動画(sp1)の発表会:ニコ割ゲーム

さて、上の記事では「ニコニコ動画=ゲーム」説を自分なりに唱えてはいるのですが、今日発表された「ニコニコ動画(sp1)」では、運営側もまさにそのような方向性を目指しているということがわかります。今日の発表会では、ニコニコ動画は「動画共有サービス」の正常進化の方向性を目指すのではなく、「あさって」の方向へ向かって進化すると宣言されていましたが、特に今回発表された新機能の中でも、ニコ割ミニゲームを強制的にプレイさせるなんてのは、わざわざ上のようなことをいう必要がないほどに、まさにそのままです*2。今日の発表では、《さらに時報が「うざく」なります!》と説明されていましたが、まさに「この発想はなかった!」という感じで実に驚嘆しました。

昨日、ちょうどニコ割ゲームの実験に遭遇した者が社内にもいたのですが、突然始まったモグラ叩きに、思わずクリックしまくりの状態に(笑)。その後に表示されたランキングを見て、私も思わず爆笑してしまいました。上のインタビュー記事では、「ライトゲーム」の話についも少しだけ触れたのですが、まさかニコニコ動画の側がライトゲームそのものを飲み込んでくるとは思っていませんでした。しかも、時報という枠で。「MMO型ミニゲーム」とでもいうか、ただの「モグラ叩き」なのに、数万人が一斉にプレイするというだけで、まさかここまで面白くなるとは。とにかく素晴らしい「時報」枠の活用法だと思いました。

「OGC2008」関連記事@4gamerひろゆきの「思想」/ひろゆきメソッドを「思想的」に読む

現在4gamerでは、OGC2008関連の事前取材記事が相次いで掲載されています。先日話題になったひろゆきさんのインタビューや、鈴木健さん+山口浩さんの記事など、いずれも読み応えたっぷりです。

特にひろゆきさんの記事は、インタビュワーの方がまさにgj! という感じで、実に見事にひろゆきさんの「思想」を引き出すような内容になっています。私が取材された時には、まだこのひろゆきさんの記事はアップされていなかったのですが、記者の方からその場で内容についてお話を伺いながら*3、若干の考察を加える形になりました。その箇所を引用しておきます。

4Gamer
 実は,今回のOGC 2008つながりで,ニコニコ動画ひろゆき氏にも4Gamerでインタビューをさせて頂いたんですけど,そこで彼が言っていたのは,「コミュニティって,だいたい2〜3年で潰れる」みたいな話だったんですよ。コミュニティが出来ていくと,その中の人が仲良くなっていくんだけど,外の人(新規参加者)から見ると,それが逆に障壁になっているという。まぁ常連が幅を利かせる云々という話なんですが。新規の人はどんどん参加しづらくなっていくし,元からコミュニティにいた人もだんだんと飽きていく。結果,寂れて廃れてしまうという。
(中略)
 ひろゆき氏いわく,属人性があるコミュニティっていうのは,そういったものだと。逆に匿名のコミュニティというは,「新しい人」から見ると,そういった閉塞性がないので入りやすいんだ,みたいな。

濱野氏:
 なるほど。確かにそれはまったくそのとおりであって,いわゆる「匿名性」のポジティブな面といえますよね。ただ,例えば2ちゃんねるがまったくの「無色透明」な匿名掲示板なのかというと,私はそれも違うよなあ,と前々から思っています。
 じゃあそれは何かというと,あれは「2ちゃんねらー」という仮想人格をみんなで共有するというか,「2ちゃんねらー」というアバターにみんなでなりきるとか,そういうものだと思うんですよ。本当の意味で「誰が何者なのかが完全に分からない」という匿名掲示板ではなくて,「2ちゃんねらー」という仮面をみんなでかぶったうえで,俺達「2ちゃんねらー」で面白いこと言い合って楽しもうぜ,という方法論。「ひろゆきメソッド」とでも言うべきでしょうかね(笑)。

4Gamer
 良いんじゃないですかね,「ひろゆきメソッド」と名付けちゃっても。

濱野氏:
 とはいえ,別にこれは「ひろゆき」さんが「そうやろうぜ」と2ちゃんねらーたちに提案したわけでもないと思うんですよ,当たり前ですけど(笑)。ただ,実際ひろゆきさんというのは,いわゆる2ちゃんねらー達がよく自称する「ニート・ひきこもり」的なライフスタイルや感性というのを前面に押し出して活動されていて,ゲームばかりやって仕事には遅刻してばかり,といったある種の「脱社会的存在」として振る舞い続けてきたわけです。
 だからひろゆきさんというのは,2ちゃんねらー達にとって,自らの姿を確認するための「参照項」というか,「人格モデル」としての役割を果たし続けてきたという側面は少なからずあるように思います。本人が実際どう思われているかは分かりませんが(笑)。
 実際,その構図はニコニコ動画ともけっこう共通していて,あれはみんなで「ニコ厨」になるサービスというか,そういう類の楽しみ方でもあるんじゃないかと思います。

4Gamer
 なるほど,そういった空気はあるかもしれませんね。
 そういう観点であれば,さっきお話に出た「ひろゆきメソッド」っていうのは,コミュニティを作って育てる,みたいな方法論ではなくて,もうちょっと大きいシステムというか,引いた視点の考え方ですよね。コミュニティ……ではなくて,人が入れ替わりながらも機能していく,都市というか,仕組みそのものというか。

濱野氏:
 そのとおりですね。社会学では,「地域共同体」(コミュニティ)と「組織」(アソシエーション),あるいは「ムラ」と「都市」を区別するんですが,要するにこれって「自分でそこに入るかどうかを選択できるかどうか」がカギになっています。前者は自分では選べなくて,後者は選ぶことができる,というわけですね。
 そこでひろゆきさんの問題意識というのは,はじめは本来自由に人々が集まってつくられたはずのネット上の「アソシエーション」が,いつのまにか閉鎖的な「コミュニティ」へと変質してしまうのを回避したい,というものですよね。だからひろゆきさんが考えているのは,「ネット“コミュニティ”の設計論」というよりも,「ネット上にいかにして“都市空間”を作るのか」という問題に近いということです。

4Gamer
 なるほど,包括的に捉えると,そうなるわけですね。

濱野氏:
 ひろゆきさんが志向しているのは,Second Life上にハリボテのような「バーチャル東京」をつくるというのとは違っていて,もっと本質的な意味で「都市」なんですよ。実際都市というのは,「顔の見えない」「匿名的な」人々が集まる空間ということですから。だから多様な人々を抱えることができるし,絶えずメンバーの出たり入ったりが起こっている。

要するに、「ひろゆきメソッド」を考える上で重要なのは次の2点です:

  • 1.閉鎖的で顕名的な「コミュニティ」ではなく、開放的で匿名的な「都市空間」を志向するアーキテクチャ設計。
  • 2.そこに住まう人々は、完全に無色透明でばらばらな「匿名的存在」ではなく、「誰もがそれに成りきっている」とあらかじめ前提にされている「仮想キャラクター」として振舞う。

前者は、偶然にも加野瀬未友さんが「チェーン店のような匿名性の高いサービス産業は客を差別しない : ARTIFACT ―人工事実―」と書かれていた話と全く同じことで、「顕名空間には、常連問題が発生しやすく」、「匿名空間において、客は平等」である、ということです。

ただし、2ちゃんねるが全くの「差別レス」な空間かといえばそんなことはないわけで、確かに「2ちゃんねらー」に同一化さえすればその《内側》においては平等かもしれないが、その《外側》のクラスターに対しては――朝日にせよプロ市民にせよオーマイニュースにせよ韓国・中国にせよスイーツ(笑)にせよ――常に嘲笑的で時には敵対的な態度を取りがちです。そしていままでの人文社会系の言説空間では、こうした2ちゃんねるの性質は次のように扱われてきました:それは暴走すると、炎上なりネットリンチなりサイバーカスケードに繋がってしまう。もしかしたら、いつかはファシズム的なものに発展してしまう危険性もあるのかもしれない。それは勿論よろしくないし、リベラル的には憂慮すべきである、と。

……ほとんど思いつきのレベルで書いてしまいますが、これに対して後者というのは、要するに大澤真幸理論でいうところの「第三者の審級」の問題であり、だとするならば、2ちゃんねるというのは(これも大澤理論に則って飛躍的に考えれば)「国民国家」(ナショナリズムの機制)に限りなく「近い」。もちろんその規模は従来の国民国家に比べればはるかに小さいけれども、ネット上に散らばる無数の小さなコミュニティに比べれば、はるかに「共通知識」の通有されている圏域は広い。しかも匿名的で会ったこともない顔も見たことのない莫大な数の人々が、互いに「想像の共同体」に属しているかのようでもある。だからこそ排外的な傾向がそこには宿るようにも見える。だからこそ2chニコニコ動画の中では、「知(的所有権)の再配分」(MAD文化への寛容の精神)もあまりにもたやすく行われる云々。

そしてさらにメタな話に持っていけば、2ちゃんねる*4なりニコニコ動画*5なものが、いまのところ主にアジアでしか生まれない/受け入れられない(ように見える)という点もまた興味深い。どうして特定のリアルの「国民国家」の内側にしか、サイバースペース上の「プチ国民国家」的な空間が生まれてくることはないのか。逆にいえば、どうしてYouTubeをはじめとする欧米圏の動画共有サービスが、ニコニコ動画のように「あさって」の方向に進化しないのかという問題は、真面目に検討する必要があるなと考えています。大変粗雑なメモになってしまい恐縮ですが……。

福嶋亮大さんへの応答

最後に。上のインタビュー記事には、批評家の福嶋亮大さんへの応答にもなっています。それは以下の二点です。

一点目:福嶋さんが展開されている「ニコニコ動画=神話」論(神話とは何か - 仮想算術の世界)について。前々から福嶋さんのこの議論には完全に同意をしていて、どういう形で「神話社会学」のプロジェクトに関わることができるかと思考をめぐらせていました。だとすれば、筆者の役割分担は、情報社会における「ブリコラージュ(≒MAD文化)」は、果たしていかなる「アーキテクチャ」によって支えられ、エンパワーメントされているのかを分析するというものになるだろう、と。先ほど上で述べた「ポリクロニック型アーキテクチャ」はその一つです。

二点目:

福嶋さんのご指摘は、「濱野は『恋空』の中に出てくるケータイコミュニケーションは「脊髄反射」ではないと考えているようだが、やっぱり現代人の多くは「構造を瞬時に読む」という点で《脊髄反射》的になっているんじゃないの》というご指摘です。福嶋さんの文章を引用しておきます。

濱野さんのエントリーのタイトルになっている「脊髄反射」の件に関しては、ちょっと異議があります。濱野さんは「すなわち彼/女らは、《主観的》には無数のケータイを介した「選択」を積み重ねている結果、《客観的》にはあたかも「脊髄反射」をしているかのように見えてしまう」と記していますが、これはたぶん「ケータイ小説は、《主観的》には脊髄反射ではないのだ」という主張なのだと思います。
(中略)
ところが、前回書いたように、現代人は構造(変換の規則)の所在こそを瞬時に見分けられるようになっているフシがある。たとえば、MAD職人は、まさに脊髄反射的に動画どうしの類似性を見分けているのではないか。あるいはもっと単純に、ゲーマーの姿を見てみればいい。彼らはたとえば、敵の出現、そしてそれに対する必殺技の一連の繰り出し方を、きわめて構造的に捉えている。と同時に、その構造をどれだけ速く把握するかが、勝敗を決するところがある。もちろん、ここでは無数の選択が働いていて、どのタイミングで技を出すかとか、どの技を出すかとか、いろいろあるわけですが、それらを一瞬で処理してしまう。こういう事例を見る限りでは、むしろ構造を読むことこそ(濱野さんのいう「選択」や「操作」や「判断」こそ)、現代では脊髄反射的になっている――少なくとも一部の文化ではすでにそうなっている――というのが僕の考えです。構造の読みを訓練して、いつでもどこでも瞬時に反応できるようにすること、それが現代人に課せられたタスクではないか。

この指摘、実は(反論を受けているはずの私がそういうのはおかしいと思われるかもしれませんが、)「まさにそのとおり!」だと考えていて、インタビュー記事の後半では、次のように『恋空』にも言及しています。

この小説の中には,いわゆるキャラクターの「内面」というか,そのとき登場人物がどう思ったり考えたり悩んだりしたのかということについて,文学的な言葉で書かれているとはいえないんですけど,その代わりに読者は携帯電話の「操作ログ」を読んでいくことを通じて,そのとき主人公がどう感じたり判断したりしたのかを「追体験」(リプレイ)できるように書かれている。恋空って,ぱっと読むだけだと,文章も支離滅裂だし,日本語もおかしいということで酷評されてしまうんですが,ある種の「リプレイファイル」だと思って読めば,ぐいぐい読めるところがあるんですよ(笑)。

(中略)

実際,恋空の中に出てくるケータイの操作ログというのは,四六時中メールを送りあっているというものなんですが,これもある種の戦略ゲーム的な様相を呈していて,例えば男が女に一方的に短いメールばかりを送っていたらシカトされてしまったので,今度は自宅の電話からかけて,誰からかかってきたのか相手に分からないようにして女に強引に電話に出させる,みたいな攻防が繰り広げられているんですね(笑)。まさにケータイを介したRTSのようなコミュニケーションが行われていて,その意味でも文字どおり「リプレイファイル」だといえなくもない。

「後だし」になってしまいますが、実は第3回「操作ログ的リアリズム」という言葉を書きつけたとき、その次の段落では、《『恋空』の中に描かれているコミュニケーションは、やたらとアクション性の高い(瞬時のレスポンスを求められる)「RTS」のようなものだ*6》といったような文面を書くつもりでいました。しかし、前回の記事の《仮想敵》として、「恋空に出てくるコミュニケーションなんて、サル的な脊髄反射でしかないじゃん」という主張を行う人々を設定していたため、結局、その段落をごっそり削除してしまったんですね。もしアクションゲームのようなものだと書いていたら、「それって脊髄反射のことじゃん」というツッコミが入るだろうと考え、いったんその段落を取り下げてしまったのです。

しかし、これは明らかに私のミスでした。非常にベタな言い方をしてしまえば、「どうせケータイを持ったサルじゃん」というように、ネガティブな意味を込めて「脊髄反射」という言葉を使う側もいれば、福嶋さんや私のように、「ゲーマーは瞬間的に(脊髄反射としかいうほかない一瞬のうちに)判断と選択を行っている*7」というように、どちらかといえばポジティブな(?)意味で「脊髄反射」という言葉を使う側もいる。しかし、実際には、その両者というのは明確には区別できないし、する必要もないわけで、その先の議論をするためには、「脊髄反射」という状態についてもう少し理論的に(現象学的に?)突き詰めて考えておく必要がある。どうしても社会学方向に寄ってしまうと、「脊髄反射」なんていうのは「行為」ですらなく、下手をしたら「行動」未満だということで、ほとんどまともに扱えない(ルーマン風にいえば「意味」を構成要素とするほかない社会学の限界がそこにはある)。だから福嶋さんが参照しているバルトやレヴィ=ストロース構造主義理論というのは、有効な枠組みになりうると思っています。いうなれば、ゲーマー的認知科学のようなものと、MAD文化的構造主義理論のようなものを架橋する試みが必要になるということですね。ただ、さすがに『恋空』編の第4回では、とてもそのような話を扱うわけにはいきませんので、また別の機会に取り組んでみたいと思います。

*1:これは冗談めいた話になりますが、ということはつまり、ニコニコ動画を語る際にもはや「RTS(Real-Time Strategy)」という表現は正確ではなくて、「PCS(Poly-Chronic Strategy)」とでもいうべきだ、ということです。

*2:その他にもニコスクリプトの機能強化がモロでそれにあたります。私自身もいまいちニコスクリプトが有効活用されていないような気がしていたので、今後に期待したいです。

*3:このとき「RTS」のことが話題にのぼったという話は確か聞いていなかったと思うのですが、偶然にも筆者がニコニコ動画を説明する際にもRTSの比喩が使われたわけで、妙なシンクロ感を感じたりもします。実際、インタビューでひろゆきさんが語っている以下の部分は、筆者のニコニコ動画RTS説にもそのまま当てはまります。以下引用:「RTSに関しては,忙しいのが好きなんですよ。戦場が三つとかになると,判断する余裕がなくなるじゃないですか。見た情報を瞬時に判断して,次に行ってまたやって……っていうので,そういうときの,何も考えないままずっと動かしている状態が好きなんですよ。反射神経だけで処理している状態っていう。」

*4:韓国や台湾には、ほとんど2ちゃんねるそのものと呼べるようなネタ的コミュニケーションの空間が存在していて、そのことを指しています。

*5:こちらはニコニコ動画台湾版のことぐらいしか現状ありませんが。

*6:この比喩からもわかるように、おそらく東さんから頂いた「操作ログ的リアリズム」についての以下のコメントというのは、ゲームの「ジャンル」の問題に置き換えると理解しやすいように思います。以下引用:「メディアの存在(ラカン風に言えばexistanceというよりinsistance)に対する再帰的な関係について考えるとき、どうしても「メタ」にひきずられて「ゲーム的」とか言ってしまうぼくはもはや古い世代なのだなあ、とこの文章を読んでちょっと思いました。」『ゲーム的リアリズムの誕生』で扱われているのは、「RPG」や「ノベルゲーム」といったアクション性が限りなくゼロで物語性の強いジャンルでしたが、これに対し筆者は、「アクションゲーム」や「RTS」といったアクション性の高いジャンルを取り上げて、物語の読解を試みたのだ、というように。ベタなことをいえば、「ゲーム的リアリズム」と一口にいっても、様々な「ゲーム性」があるということなのかもしれませんが。

*7:RTS以外の例だと、筆者はバーチャの世界で語られていた「高速じゃんけん」のエピソードを想起します。