雑誌『InterCommunication』(涙の最終号!)に記事を寄せました。ニコ動/2ch論、生態系マップ、荻上チキ+ドミニク・チェン両氏との鼎談、の3本です。

 2つめの告知です。『InterCommunication』No. 65 2008年夏号(目次紹介)に、原稿を書かせていただきました。こちらは今月末の発売予定で、Amazonだと5/30となっています。しかも、実に10数年にわたって刊行されてきた『InterCommunication』誌は、これが最後の号になるとのことです(休刊のお知らせ)。ということで、皆さん記念にぜひ買いましょう! 僕も保存用にたぶん3冊くらい買います(笑)。

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 07月号 [雑誌]

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 07月号 [雑誌]

 しかも、なんとも恐れ多いことに、今号では3つの記事にクレジットさせて頂いています。以下、内容紹介を簡単に。

  • まず1つ目の記事は、荻上チキさん(id:seijotcp)と、ドミニク・チェンさんとの鼎談記事になっています。分量は約2万5千字(くらいだったはず)です。

荻上チキ+ドミニク・チェン+濱野智史 (2008)「コミュニケーションの未来 ―― ゼロ年代のメディアの風景」『InterCommunication No.65 Summer 2008』第17巻第3号, NTT出版, pp.102-117, 所収.

 話題は多岐にわたっています……。学校裏サイト問題、ニコニコ動画Google梅田望夫×西垣通論争*1について。そして、ドミニクたちが開発している、タイピング履歴保存・再現ソフトウェア「TypeTrace」について(現在、ウェブ版のユーザーテストの応募をしているみたいです。まだ少ししか触っていませんが、これはけっこうすごいですよ。また別の機会に改めて紹介したいと思います)。そして時には、ドゥルーズデリダゴダールといった固有名も出てきたり、といった約2万5千字の鼎談になっています。

  • 次に、2つ目の記事は、筆者が昨年から今年にかけて論じてきた、ニコニコ動画論の集大成(というか圧縮版)、とでもいうべき内容になっています。

濱野智史 (2008)「「ニコニコ動画」をめぐる冒険 ―― 「擬似同期型アーキテクチャ≒複製技術 II 」のアーキテクチャ分析」『InterCommunication No.65 Summer 2008』第17巻第3号, NTT出版, pp.90-95, 所収.

 ただし、もちろん、新しい論考もきっちり展開していて、この論考では北田暁大氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』を参照しつつ、「2ちゃんねる」と「ニコニコ動画」の比較分析を行っています。これはけっこう踏み込んだ主張だと思うのですが、そこではこういうことをいっていて、

 「かつて北田暁大氏らが憂慮していたような、2chにおける「ネット右翼的なもの」(嫌韓・反サヨ・反マスコミ)の暴走というリスクは*2ニコニコ動画上ではかなり後退・減少しつつあるのではないか。」

というものになっています。

 しかし、これには数多くの反論が出てくるであろうことを、筆者は承知しています。もちろん、ニコ動でも、決してネット右翼的な書き込みが見られないわけではない。むしろ荒れる動画はとことん荒れる(たとえば最近だとチベット問題や五輪聖歌リレー絡みの動画がそうだった)。しかし、とはいえ2ch時代に比べると、これらが「祭り」のメイントピックとなることは少なくなっていることもまた事実だと思います。たとえばニコニコ動画の再生数ランク上位100位の中に、「ネット右翼」絡みのコンテンツが果たしてどれくらいあるのかを見てみれば一目瞭然でしょう。

 「それが何か?」といわれてしまいそうですが、要するに上の文章で筆者が提起しているのは、「もしかして、ニコ動だと、ネット右翼の勢いは落ちてる?」ということです。そしてその指摘は、ニコニコ動画が、その慣習や作法の大部分を2chからほとんど引き継いでいる(ように見える)ことを考えれば、実はますます奇妙なことだと思うんですね。2chとニコ動は、明らかに類似(継承)している部分と、変化している部分がある。その違いは、ニコ厨であればほとんど直感的に理解していることだと思うのですが、たとえば、ただただしさんの昨年話題を集めたエントリは、その感覚が表明されたものだったと思います。ここで引用しておきましょう:

「まぁ、どうせ2ch発祥だし(違うけど)、素人お断りの殺伐とした雰囲気なんでしょ、と思い込んでる人が多いんじゃないかと思うんだけど、ニコ動のコミュニティはぜんぜん違う。2chだって殺伐としてるのは特定の板だけで、実際はそんなことないんだけど、ニコ動コミュニティの「温かさ」はそれともちょっと違う。」

ニコニコ動画の魅力は、そのコミュニティの温かさにあるんだよ - ただのにっき (2007-09-24)
http://sho.tdiary.net/20070924.html#p01

 いうなれば、「2chの『嗤い』から、ニコ動の『w』へ」。その変遷は、果たしてなぜ生じたのか。――といったような分析を、2つ目の文章では展開しています。

 ちなみに、この論考では、けっこう自分なりに気合を入れて図版を数点作成しましたので(久しぶりにIllustratorをばりばり動かしました…といってもショボイものですが)、こちらもあわせて紹介しておきたいと思います。字がつぶれてしまって見えにくいかと思いますが、そこはぜひ手にとってご覧いただければ幸いです。

ニコニコ動画と2ちゃんねる

  • 最後に、3つ目の記事を紹介します。こちらは通常の論考という形ではなく、「ソーシャルウェアの生態系マップ」という一枚の図版と、それに関する解説文、というものになっています。

濱野智史 (2008)「ソーシャルウェア生態系マップ」『InterCommunication No.65 Summer 2008』第17巻第3号, NTT出版, pp.96-97, 所収.

 なにやら聞きなれない言葉だとは思いますが、解説文の冒頭を自己引用すると、これは、「主に2000年代以降に登場した主要な「ソーシャルウェア(Socialware)」が、インターネット上に「生態系」を形成しているというイメージを表したもの」になっています。いわゆるOSI階層モデル的な「レイヤー構造図」と、進化論を習うときに出てくる「樹形図」を足して二で割ったような図、というほうが分かりやすい方には分かりやすいかもしれません*3。こちらも、図版を切り出して紹介しておきます。雑誌に掲載されるバージョンは、少しだけ修正が入っているとのことです(下のバージョンは筆者が作成したもの。こっちもばりばり気合入れてつくりました!)。

ソーシャルウェアの生態系マップ

 ちなみに、こちらの図版は、NTT出版より今夏に近刊予定の拙著にも掲載される予定です。仮題は『アーキテクチャの生態系』。現在、鋭意執筆中です。こちらについては、また別の機会に改めてご案内させていただければと思います。

* * *

 最後に、『InterCommunication』誌についても少しだけ……。学生時代から、「情報」と名の付いたものはあれこれ濫読してきた僕にとって、特に90年代の「インコミ」(愛着を込めてこう呼びたいと思います)というのは、理論的支柱のような存在だった、といっても過言ではありません。2000年代以降の情報関連の議論というのは、(とりあえず日本に関していえば)ほとんどが2ちゃんねる・ブログといったネットコミュニティ論か、Google著作権をめぐるエコノミカルな議論に終始していた感があって、それに比べれば90年代の同誌に掲載されていた論考は、とりわけ抽象的で、アクロバティックで、それだけに刺激的な論考も多かった。もちろんその多くは、現実から遊離した高踏的議論にすぎなかった、とみなす人も少なくないでしょう。それは確かに一面ではそうなのですが(そしてそのことについては上で紹介した鼎談記事でも触れています)、それだけで片付けてしまうのはよくない。たとえば、昨年から、WiredVisionのほうでもここでも何度も名前を挙げているのですが、同誌で連載されていた東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(『情報環境論集』に所収)や大澤真幸「メディア的変容」(『電子メディア論』として刊行)は、いまでも僕がITやら情報社会やらについて(そして結局のところは社会全体の枠組みで)物を考えるときの、欠かせない軸になっています。

 ということで、インコミの残してくれた知的遺産のプラットフォームを、どうやって今後受け継いだり残したり接木していけばいいのかについては、(これは何も自分が偉そうにいうようなことではないと思うのですが、)僕は僕なりに、けっこう真剣かつ長期的な視野で考えていかなければ、と思っています。

*1:注釈しておくと、梅田さんの『ウェブ進化論』に、西垣さんの『ウェブ社会をどう生きるか』から痛烈な批判が浴びせられていたことを指しています(だから正確には「論争」ではない)。たとえば江坂健さん紹介を参考のこと。

*2:ここでは概要だけ説明しておくと、実際には別に2ちゃんねらーたちは内容的に右翼的なわけではなく、単に盛り上がって「繋がり」を確認したいだけなのに、現象全体としてはナショナリスティックな運動に加担してしまうこと。参照としてised倫理研第7回

*3:さらに付け加えると、この図は、ある種の「プラットフォーム史観」とでもいうべきものを、ビジュアライズする試みの一つになっていると思います。ソーシャルウェア以外にも、ゲームとか小説とか思想などの「ソフトウェア一般」の歴史を表す際にも、実はけっこう使えるんじゃないか、と思っていたりします。