なぜニコニコ動画は「匿名制」を採用するのか――BBAシンポジウム感想に代えて

はじめに

 さて、当日のBBAシンポジウムでは、世界最大のSNSMySpace」の日本版である「MySpace Japan」と、日本版セカンドライフとしても知られる「splume」についてのお話が聞けました(11/25追記:以下の記事で、シンポジウム全体の詳細なレポートが書かれていますので、ご参考まで:仮想コミュニケーションビジネスの勝因を探る―シンポジウム「仮想世界におけるコミュニティサービスの現在」 - iNSIDE)。その感想と、そこから触発されて考えたことを、以下にメモ的に書いてみたいと思います。

(※書き終わってから追記:とかいってたらだらだらと長くなってしまいました・・。いろいろあまりに荒削りな文章なので、手を入れなおしてWired Visionのほうに再掲するかもしれませんが、とりあえずメモということで以下、載せておきます)

splumeアーキテクチャ設計

 まず、「splume」のほうから。特徴はそのオープン性。セカンドライフのようにリンデンラボ社の運用するサーバをレンタルするという形ではなく、ウェブサーバー上に「.cr」という仮想世界データファイルを置く、というかつてのVRMLに近い形式を採用。基本的にどのウェブサーバ上であってもファイルを設置できるので、誰でも簡単に仮想空間を構築・設置できるというのがウリ。しかも、異なるサーバー間の移動もシームレスに行うことができて、別のサーバーにある「向こう側」の景色や人も見える。さらに、セカンドライフで問題になっていた「ひとつのサーバに同時共在できる人数が数十名程度」という人口密度の過小さの問題を意識しており、200名程度まではひとつの空間内にユーザーが存在できるよう設計しているとのこと。ただし、そのかわり、セカンドライフのように仮想空間内の物理法則についてはシビアにユーザー間の同期は取っていないとのこと(それをやるととたんに負荷が大きくなるんだそうな)。だから、splumeの仮想世界は「ハリボテ」に近い状態にしているという。感覚的には、PS/PS2時代の3Dゲームに近いのかもしれない。プレイヤーキャラ(PC)とNPC以外はカキワリの背景だけで、プレイヤー側の操作とのインタクティビィティを一切持っていない、というような。

MySpace上のクリエイターたちの「成り上がり」に関するエピソード

 正直なところ、MySpace日本語版の展開についてはほとんど何も知らなかったのですが、すでに月間PVは1億超えてて、ミュージシャンもメジャーからインディーズまで約3万組が登録してて、MySpaceユーザーに限定したシークレットライブをやってけっこう盛り上がってますとか、MySpaceに登録したおかげでライブに人が入るようになったとか、もろもろ盛り上がっている感じが伝わってきました。また、想定している日本のユーザー層は、MySpaceのデザインのカスタマイズ性の高さをかんがみて、ケータイの壁紙とかストラップとかをゴテゴテとつけているような「ゴテゴテ文化」に親しんでいる層、つまり女子高生/ギャル系に訴求していけるんじゃないか、とのことでした。確かにモバゲーのようなアバター系とは、また別のユーザーカテゴリがつくれそうな感じですね。

 本家アメリカの例もすごくて、ぜんぜん知らなかったのですが、Sean Kingstonというアーティストがいて、Myspace上で有名なプロデューサーに「俺の曲を聞いてくれ!」と一日に何回もメッセージを送りつけたら、実際にデモテープを聞いてもらうことができて、結果的にデビューしてその後ビルボード一位にまで上り詰めたんだとか。「それなんてアメリカンドリーム?」「どこの矢沢永吉だよ!」とかいいたくなるところですが、とにかくその「成り上がり」のストレートぶりには驚くしかない、といった感じです。

なぜニコニコ動画は「匿名制」を採用するのか――匿名空間における「汎神論」的な《褒め》コミュニケーション

(ここからの文章はやや固めでいきます)

 このMySpace上の成り上がりエピソードを聞いて、僕が思い出したのは、ニコニコ動画で起きたとある歌い手さんの「自作自演」が発覚して祭りになった件のことだった。枚挙に暇がないけれど、日本では、ネット上で何かしらクリエイター的活動をするにしても、ひょんなことからフルボッコにされてしまうというリスクを抱えることになる。Wired Visionでも書いたけど(第19回「初音ミク」をはじめとするニコニコ動画上のコンテンツ協働制作に関する考察 | WIRED VISION)、とりわけ趣味的なコンテンツというのは、「主観的」な基準によって評価される傾向が強く、「客観的」に誰もが共有可能な評価基準に立って結論に着地することが難しいから、「信者」と「アンチ」間の闘争が無限にやれてしまう。

 そうした風潮に対し、「人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ」(梅田望夫)と諭したとしても、現実的なソリューションとしては意味はない。そこで実際に日本のネットユーザーの一部が支持し、運用しているのが、2ちゃんねるニコニコ動画的な「匿名制」なのではないか。

 それはどういうことだろうか。遠回りになるが、余談を経由しつつ説明をはじめよう。2chの匿名性について、団塊くらいの世代は、「匿名という隠れ蓑から誹謗中傷を書くのは卑怯だ」といった点に着目する傾向が強いのだが、一方、新人類から団塊ジュニアくらいの世代は、「2chも誹謗中傷だけでなくて、面白いものがあるというのはわかったけど、なんで匿名のまま『神』とか『職人』とかいわれるような創作活動に従事するのか、そのモチベーションがわからない」といったような反応をする傾向があるように感じられる。

 たとえば、前者の最近の代表例は池田信夫氏で、彼から見ると、基本的には顕名的システム(=固定id制)を持つ「はてな」でさえも、実名を出していない以上は、「匿名性」の傘を着た卑小なネットイナゴたちの集まりだということになってしまう(ちなみに、かつて草創期には2ch的なものを終わらせたかのようにもいわれていた「はてな」において、結果的に「はてな匿名ダイアリー」というシステムが登場して人気を博しているこの数年間の歴史的経緯は、日本のネット・コミュニケーション環境の特質を考える上で大いに示唆的といえるだろう)。

 そして、後者の最近の代表例は小飼弾氏である。彼はニコニコ動画上の活発な創作活動と、オープンソース的なハッカーたちのコラボレーション活動は確かに似ているとした上で、「オープンソースプログラマーが、誰が何を作った、あるいは作り直したかがはっきりしているのに対し、ニコ厨の場合は、誰が何を作ったのかが簡単にはわからず、そしてそのことをニコ厨たちはあまり気にしていない」という点で大きく異なると指摘し、その事実を「かなり驚くべきこと」と述べている(404 Blog Not Found:ニコニ考 - オープンソースプログラマーとニコ厨の違い)。

 たしかに小飼氏も指摘するように、ニコニコ動画では、「優れた作者」を見つけるのがすごく難しい。たとえば、普通の動画サイトであれば、「投稿者別再生数ランキング」みたいなものがあってもよさそうなのに、ニコニコ動画にはそれがない。また、ふつうのブログやSNSやレビューサイトやYouTubeのような動画共有サイトであれば、何か情報を投稿する際には、自動でユーザーアカウント名が記録&表示されるのに、ニコニコ動画上には、投稿者を識別するためのユーザーIDというのも基本的にはない(荒らし的なコメントを書くユーザーを非表示にするためのIDは存在する)。通常、Googleで検索して自分の知らないブログにたどり着いて、その記事が面白いと思ったら、そのブログのindexに上がって、ほかの記事を読もうとするわけだが、ニコニコ動画では、投稿者がマイリストをつくってまとめてくれるか、あるいはタグとか検索で視聴者の側が作者名を示す「識別子」をつけない限り、容易にその投稿者を追いかけることができない。しかもニコニコ動画では、そもそもユーザーアカウントを取得しないと、内部を閲覧することすらできないクローズド・サービスなのだから、サイトの仕組み上は、ユーザーの「固有性(追跡性)」を担保しているはずだ。にもかかわらず、あえてそれを表面に出していないのである。つまり、ニコニコ動画アーキテクチャは、「固有名(投稿者に関する固有の識別子)」を《自然発生》させない、という意図の下に設計されているのだ。比喩的にいえば、著作権のスキームは《その権利がコンテンツを製作したその瞬間に、自動的に発生する》という前提で運用されているけれども、ニコニコ動画はそれとは真逆の「社会環境」として構築されているのである。

 それでは、なぜニコニコ動画はそうした匿名的なアーキテクチャとして設計されていて、しかもユーザーはそれに満足しているように見えるのか。小飼氏はその理由をいくつか挙げているが、そのひとつに「コードには正誤があるが、作品には正誤がない」というものがある(404 Blog Not Found:ニコニ考 - 名無しがニコ厨でOKでオープンソースプログラマーでNGな理由)。これは、僕が初音ミクオープンソース現象について書いた「プログラムは客観的に評価可能、コンテンツは主観的にしか評価不可能」ということと同じことをいっているのだが、ただしこの理由だけでは、要するに「ニコニコ動画のコンテンツには明確な正誤はないから、匿名のままでも別にたいした問題には発展しないから」という消極的な要因しか説明しておらず、なぜ「匿名制」という仕組みがあえて採用され、強く支持されているのかという積極的な要因を説明できていないように思われる。

 そこで、(ようやく本題に戻るのだが、)匿名制という仕組みが積極的に支持される理由として考えられるのが、先に触れた「批判やアンチ勢力に対する耐性を高める」というものである。要するに、匿名のまま作品を公開しておけば、批判や粗さがしの攻撃を受けたとしても、そのダメージを自分の(現実空間上での/ネット空間上での)アイデンティティと無関連化することができる。そしてニコニコ動画では、多くのユーザーがその作品を絶賛すると、ユーザーの側がむしろ識別用の固有名を名づけてくれる。だから、自分から固有名を名乗りだす必要はない。逆に、周りから名前をつけられるようになるまでは、自分からは名前を名乗らないほうが得策ですらある。

 その一方で、ニコニコ動画には、作り手・歌い手・字幕職人といったユーザーたちを――たとえ彼/女らが名前を持っていないとしても――「神」として褒め称えるコミュニケーションが満ち溢れている(もちろん荒らし的ユーザーもいるのだが)。これもまた2chから引き継がれた作法であって、そこでは、基本的には誰もやりたがらないような「ボランタリー的労働」――AAを作るとか、まとめサイトやテンプレを作るとか、CDやDVDからぶっこ抜いたファイルをP2Pにうpるであるとか――によってコミュニティに貢献した主体のことを、「神」として即座に、刹那的に、崇め奉るコミュニケーション作法が一般的に定着してきたのである。これを誤用的に、「汎神論」な《褒め》コミュニケーション作法とでも呼ぶことができるだろう。

 おそらく、一般的に理解されにくいのは、「匿名の存在のまま褒められたり感謝されたとしても、その瞬間はうれしいのかもしれないが、この自分が褒められたということを周囲に継続してアピールできないから、意味がないじゃないか」といった点にあるはずだ。ごく普通に考えれば、「褒められる」ということは、「評判」というソーシャル・キャピタル社会関係資本)を獲得するということである。評判が高まり、信頼を獲得すれば、さまざまな社会的活動はやりやすくなる。だとすれば、その資本を蓄積するためのハコとして、当然「名前」を持った主体が必要になる。それが普通の考えだろう。たとえば、オープンソース活動に従事したハッカーたちは、そこから直接「金」という経済資本を得ることはなくても、「評判」という社会資本を得ることができる。それがのちのちのハッカーとしての活動に大いに役立つ。アルファブロガーにしても、同じことだ。名前を出してブログをやることで、「評判」を得るようになり、雑誌で記事を書いたり書籍を出したり、広告収入を得ることができるようになる。しかし、ニコニコ動画の協働的創造活動に「匿名的」に従事しても、経済資本どころか、社会資本すらロクに蓄積することができない。彼/女らは、評判を「名前」に蓄積することで、威信階級なり経済階級なりの階梯を駆け上がっていこうとは考えない。それでは、なぜ彼/女らはそんな奇特なことをするというのか。

 僕はニコニコ動画上の「職人」や「神」と呼ばれるような活動には従事していないので、それを推測することしかできないのだが、おそらく、彼/女らの多くは「それでもいい」と考えているのだろう。多くの匿名的なユーザーから、褒められ、絶賛されることで生じる、刹那的で、ごく個人的で孤独な喜び。そこで得られた「評判」は、何か社会的な活動を行うための資本としてほとんどまともに蓄積されることはない。しかし、その代わりに、突如としてアンチ勢力からの批判にさらされても、自分の存在を深刻なまでにずたずたに傷つけられることもない(と思うことができる)。匿名空間上で名づけられたかりそめの「コテハン」は、リアルの自分の生活とはアンバンドルされており、何かトラブルがあれば、いつでも「トカゲの尻尾」のように切り離すことができるからだ。いうなれば、「自分」という人格システムの「セキュリティ対策」として、匿名的コミュニケーションは日々支持され、運用されているのである(これに似たようなことを、日本のSNSの状況にひきつけて書いたことがある:「「OpenSocial」は日本のSNSをめぐる状況を変えるのか? | WIRED VISION」)。

 先にも触れたが、梅田望夫氏は、もっとネット上で「人を褒めろ」といった。これはいいかえれば、「名前」を持った個体同士で、ポジティブな評判情報を取り交わすべき、ということだ。彼の考えでは、情報技術(インターネット)は「個」の力をエンパワーするものであり、そのためには「評判」という社会資本をもっと流通させることで、「個」を単位とした社会的活動を取り結びやすくする必要がある。だから、梅田が「人を褒めろ」というとき、その命題は単に「人生論」の問題としてではなく、ある種の「社会論」として要請されている。しかし、少なくとも日本のCGM的世界においては、「名前」を持った個人という単位は、匿名的に設計されたアーキテクチャに溶解しており、「汎神論」的なポジティブなコミュニケーションと、「炎ジョイ」的なネガティブなコミュニケーションの連鎖――「繋がりの社会性」(北田暁大)――が日々ごうごうと渦巻いている。だがそれは、梅田氏が指摘するように、決していまの日本の若者たちが、「ダメな大人の真似」をしているからといった「生き方」に還元しうる問題ではない。上に見たような、ある種の「人格システム(「自分」)」と「社会システム(ネット上のコラボレーション)」の効率的な運用方式であるからこそ、「匿名的コミュニケーション」はいまもなお日本社会の一部に強く根付いているのだから。