連載更新のお知らせ

今週から、連載第24回に相当するエントリーを、3回に分けてアップ中です(また間を空けてしまい、申し訳ありません)。これまでWiredVisionの連載では、同期/非同期という論点について、「ニコニコ動画」や「Twitterマイクロブログ)」や「セカンドライフ」といった個別のサービスごとに考察してきたのですが、今回の「同期性」をめぐる一連の考察では、その論点をメディア環境全体に当てはめてみる、というものになっています。24-3での図表を、こちらにも掲載しておきます。

同期と非同期の「二層構造」モデル

議論が循環したり、「時報」のような各論に寄り道したり、例によってあっちらこっちらした議論になっているのですが、基本的なモチーフは、東浩紀氏の二層構造モデルをメディア環境の話に当てはめる、というものになっています。今回のエントリーを書く上でいろいろと自分でモデルを考えてみたのですが、やはり自分的には、インターネットのレイヤーモデルにすとんと落ちていきました。

「二層構造」モデルに関する個人的な回想

ものすごく些細で個人的なエピソードになってしまうのですが、実はこの「二層構造」を最初に図にした*1のは、2004年の秋学期に東京大学情報学環で開催されていた東氏のゼミで、筆者がウルリッヒ・ベックについてのレジュメを作成したのが最初だったということです(当時のレジュメのファイルが見つかったので、記念にキャプチャしてアップしておきます:下図参照)。しばらく私はその経緯をすっかり忘れていたのですが、GLOCOM在籍時代に東氏自身に指摘していただいて思い出しました。そしてさらに東氏がそのとき指摘していたのは、この二層構造図は、『動物化するポストモダン』の中に出てくる、左に「データベース(大きな非物語)」、右に「シミュラークル(小さな物語)」という図*2を、90度左に回転したものになっている、ということでした。いうなればそこで「90度的転回(?)」が起きたわけで、(本当にただの回想ですみませんが、)個人的には感慨深いエピソードです。

「二層構造」(コミュニタリアンとリバタリアンのカップリング)

次回以降の予定と、「アサシンクリード」とか「恋空」とか

さて、24-3回で同期考察編はいったん終了させていただいた上で、次回以降は、今回の「二層構造」モデルに準拠しながら、「ヴァイラル・マーケティング」や「狭告」モデルの再解釈(佐々木裕一 (2007) 「オンライン・コミュニティにおける2つの二層構造 RAMとROM、そして価値観とアーキテクチャ」『組織科学』第41巻、第1号. の紹介)などのトピックについて論じていく予定です。

ただし、もしかしたら別の内容に寄り道するかもしれません。とうに話題の旬は過ぎてはいますが、最近ようやくクリアした「アサシンクリード」の話とか、ケータイ小説「恋空」のメディア論的読解(つい最近ようやく読み始めたのですが、これ、実に面白い作品ですね。確かにストーリーの水準で読めば「クソ」と一蹴されるか、せいぜい「一定の読者層にとってはこれが『リアル』」なんでしょ、といったあたりに落ち着いてしまうのでしょうが、詳細はまた)とか、いろいろと触れてみたいトピックがあるのですが、どうにも時間が足りない状態です。しかも、結局引越しの結果、年明けの第二週まで自宅にネット回線がやってこない(!)という惨劇的状態に陥っていて、この文章も、会社終了後にマンガ喫茶で書いている始末。このままだと、下手すると年末年始もマンガ喫茶で過ごすハメになりそうです・・。

「同期性」は「共通知識」を生む「独立変数」なのか?

さて、表題の件についてもずいぶんとレスポンスが遅くなってしまい大変に申し訳ないのですが、浅倉氏からいただいた以下のご質問とご指摘について、WiredVisionのほうでは総括にかかってしまったこともあって、触れることができなかったため、ここで簡単に触れてみたいと思います。

浅倉氏からのご指摘は、一貫して、「同期」は必ずしも「共通知識」を生むための重要なファクターではないのではないか、というものです。浅倉氏にもフォローしていただいているように、非同期であっても、その情報源が「公的情報」であったり、「希少性」(ほかに選択肢がない/少ない)という条件であったり、「強制的に表示する/割り込ませる」という仕組みを経由すれば、「共通知識」は形成されると考えられるからです。

このご指摘については、実はまったくそのとおりだと私も思います。今回筆者は、ウェブコミュニケーション上の「同期/非同期」の話と、いわゆるマスメディアとか手紙とか電話といった「古い」メディアにおける「同期/非同期」の話を、意図的にいっしょくたにして論じてしまったので、実に不十分な分析であるという印象を与えてしまったかと思います。筆者が一連の「同期性は非同期に比べて『共通知識』を生みやすい」というとき、それは、いろいろなメディアをものすごく乱暴にひっくるめた上で、ある種の「相関」のようなものとして、「共通知識」を生み出しやすい傾向がある、ということを指摘しておきたいという意図がありました。

たとえば、ある社会における同期的体験や同期的コミュニケーションというのは、人間の組み合わせのパターンも、共有可能な時間の量も有限ですから、非同期に比べれば相対的に「希少」になります。そして、その「希少」な体験を、大規模かつ一気に引きこせるメディアは、これまで単に技術的な問題として「マスメディア」しかなかった。また、テレビや電話といったメディアは、別の状況の「いま・ここ」が突然持ち込まれるという意味で、きわめて「強制的」で「割り込み的」な性格を持っていた*3。このように、「同期性」と、「希少性」や「強制」といったファクターは、ある程度「相関」していた傾向であり、それゆえ「共通知識」を効率的に生んできた、ということです。

そして今回筆者は、こうした複数のファクターの中から、それではどれが真に「共通知識」なるものを生み出しているのに関しては、分析を行うことはしませんでした。「相関」との比喩でいえば、今回は、「共通知識」なるものを生み出す「独立変数」(それ単体で共通知識を生み出す原因)を探し出す実証的分析は行っていない、ということです。とはいえ、筆者ももちろんこの点は重要だと考えていますので、(真正面からのお答えになっておらず誠に申し訳ないのですが、)また別の機会に、じっくりと取り組んでみたいと思います。

蛇足:「メディア論」ではなく「アーキテクチャ論」という立場

さて、蛇足ではありますが、今回浅倉氏からご指摘いただいたような、細かくメディアの設計や体験の条件に分け入って機能主義的に分析するという作業は、(それこそ筆者が関心を持っている)「アーキテクチャ論」においては、いうまでもなく大変重要なことです。というのも、これまで、電話やラジオやテレビといったいわゆる「メディア」は、さほどその設計や性質が頻繁に変化するようなものではなかったからです。それゆえ、いわゆる「メディア論」と呼ばれる学問の内側では、「技術が社会をどう変えるか(技術決定論)」「社会が技術をどう変えるか(社会構築主義)」といった対立軸の下で議論が行われてきましたが、「それがどのように設計されるのか、そしてその設計がどういう影響を及ぼすのか」に関する議論は、かなり手薄だった(というか単にその必要がなかった)といえます*4。しかし、当然ながら、いまやそうはいっていられない、というのが筆者の立場です。

さらに蛇足を重ねれば、昔から筆者は、自分の研究の関心を、どう一言で伝えていいのかわからず、困っていました。「情報社会論」とか「メディア論」といったあたりがおおむね該当することになるのですが、筆者は、社会のサブシステムである「産業」(経営学・組織論)や「ジャーナリズム」の観点から、インターネットや情報社会に興味を抱いているわけでもないし(あえていってしまえば、インターネット上だからこそ生まれる「社会的なもの」にしか関心がない)、かといって既存の「メディア論」には、インターネット上のコミュニケーション・ツールの「設計」がころころ変わったり変わらなかったりする状況を、うまく説明できる理論的な枠組みがない(ある程度じっくり考察をしていくと、「技術決定」か「社会決定」かの立場が両方成立してしまって、結論が「宙吊り」状態になってしまう)。ですから、筆者の研究のスタンスは、おおげさなことをいえば、いわゆる既存の「メディア論」とは異なり、コミュニケーション・デザインの視点を踏まえるという意味で、「アーキテクチャ論」とでもいうべきものだと思っています。それが、WiredVisionの連載タイトルでもある、「情報環境研究=アーキテクチャスタディ」に込めた意味合いだったりもします。

*1:もちろん、わざわざいうまでもありませんが、あくまで図にしたのが最初というだけであって、「二層構造」論の内容自体は、当時東氏が「波状言論」で議論されていた内容(『波状言論S改』に収められている東・北田・鈴木三氏の鼎談)をもとにしています。

*2:そしてこの図自体が、『存在論的、郵便的』に出てくるフロイトのマジックメモについての図を発展したものになっている、という系譜があります。

*3:たとえば、この点をハイデガーを援用して哲学的に論じているのが、和田伸一郎氏の『存在論的メディア論』です。

*4:ちなみに、すでにこうした論点については、ised@glocom第三回の北田暁大氏の講演「ディスクルス(倫理)の構造転換」の冒頭部において、「コミュニケーション・デザインの視点の不在」として論じられています。ここで北田氏は、既存の公共圏論・メディア論・コミュニケーション論のアプローチを整理した上で、「コミュニケーションのデザイン(水路付け)を規定するアーキテクチャと、コンテンツ層のコミュニケーションという二層の結びつきを意識しながら議論をする必要がある」という立場を表明していますが、筆者の立場もその延長にあります。ただしもちろん、いままでそうしたアプローチがまったく存在しなかったわけでも当然なくて、たとえば「グループウェア」等に関する「CSCW研究(computer supported cooperative work)」や「インターフェイス論」等は、「アーキテクチャ・デザイン」の視点を踏まえた研究プログラムの一例です。